TOP HISTORY 15年の軌跡 リレーコラム

事務局スタッフとして
支えた7年間

設楽 健治(レノファ山口FC立ち上げメンバー)Kenji Shitara

 レノファ山口FC(以下レノファ)は、今年で15周年目を迎えました。15年前、レノファを立ち上げたメンバーの一人として、過去の思い出につきまして、少しお話してみたいと思います。

 レノファ創設当時の県リーグは、1部から4部まであり、次いで中国リーグ、そして日本フットボールリーグ(JFL)、最上部にJリーグがJ2までありました。つまり、山口県でJリーグを目指す新しいサッカーチームができると、県リーグ4部からのスタートとなるため、最短でもJリーグまでには約7年かかる計算です。

 かつて、山口県に日本リーグで活躍したチームがありました。永大産業チームです。このチームが来た時に、県サッカー協会では、1年で1部リーグに上がれる特別ルールを作ったのです。(現在このルールは廃止されました)

 こうした中、平成17年10月に、県サッカー協会内に「Jを目指すチームづくり検討委員会」を発足しました。平成23年の国体が山口県で開催されることも、この委員会を後押ししてくれました。

レノファ山口初のホーム戦にて(2006年5月7日/維新公園ラグビーサッカー場)※前列右端が筆者

 このとき、県内で一番近い位置にいるチームは、中国リーグに参戦していた山口県サッカー教員団(県教員)でした。このチームを、レノファの母体チームとすべく、県教員にお願いし、チームの了解をもらい、レノファ発足のスタートに立ったわけです。

 そして、監督には県教員や県選抜の要となって活躍された、故宮成隆先生にお願いすることになりました。

 平成16年3月に山口県庁記者クラブにおいて、レノファ発足の報道発表を行いました。チーム名につきましては、一般公募を行い、下関市在住の中川和由さんが応募された「レノファ山口FC」に決まったのです。中川さんには、副賞として、横浜国際総合競技場でのJリーグの試合チケットを送った記憶がよみがえります。

 チームの運営については、宮成監督の自宅で、毎週1回の夜に約2時間の会議を行い、チームの運営・サポーターの拡充・資金の調達やグランドのこと等を話し合いました。私は毎回、下松から通ったことが懐かしく思い出されます。

2010シーズン選手&スタッフ集合写真 ※最後列右から2人目が筆者

 そして、4年後の平成20年、中国リーグで初優勝を果たし、同年11月22日からの、第32回全国地域リーグ決勝大会1次ラウンドに出場。東海の静岡FC・東北のクルージャ盛岡・北信越の松本山雅と対戦し、2勝1分け(PK5-3)で、グループ1位となって決勝ラウンドの出場権を得ました。

 沖縄県石垣島での試合は、ホンダロック(宮崎)・Vファーレン長崎(長崎)・町田ゼルビア(東京)とのリーグ戦で、3位以内に入ればJFLに自動昇格できたにもかかわらず、結果は3戦3敗で4位となり、残念ながらJFLに昇格することが出来ませんでした。しかしながら、レノファの躍進ぶりは全国のサッカーファンに届き、事務局を担当していた私にとりまして一番のいい思い出となりました。

NPO法人レノファ山口スポーツクラブ理事会にて※左端が筆者

 その後、レノファは平成25年に全国社会人選手権大会で優勝し、全国地域リーグ決勝大会に出場。中国リーグでともに戦ったファジアーノ岡山ネクストと一緒にJFLに昇格しました。翌年、初の全国リーグ参戦となったレノファはJFL4位に入り、新設されていたJ3に昇格。翌年には、圧倒的な攻撃力を武器にJ3優勝を果たしました。J2昇格がかかった最終戦では、鳥取県のスタジアムで、劇的な勝利で昇格した話を聞き、前述の松本山雅との戦いで、PK戦で勝ち上がった時のことを思い出し、何か、あの時と通じるものがあるのではと感じたのでした。

 最後になりますが、今年は、監督も変わり、2年後にはJ1に昇格するとの確約をいただきました。これからも、チーム・事務局・サポーター一丸となって、目標に向かっていこうではありませんか。私も微力ではありますが、精一杯応援しますので、これからも我々に『夢・感動・元気』を与えてください。


設楽 健治(レノファ山口FC立ち上げメンバー)Kenji Shitara

1942年4月4日
山口県山口市出身
レノファ山口FCの創設に携わる。
特定非営利活動法人山口アスレチック・クラブ(レノファ山口FCの前運営法人)では理事を務めた。

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