TOP HISTORY 15年の軌跡 リレーコラム

初代代表としての挑戦と苦難

佐竹博さん(レノファ山口FC初代代表)Hiroshi Satake

 2021年(令和3年)3月13日(土)16:00、J2リーグ第3節、レノファ山口FC 1-2 アルビレックス新潟のゲーム終了。カウンター狙いからのミスにより、逆カウンターとなり、前半の2失点。後半には惜しい場面もあったが、1点返すのが精一杯で2連敗。3節までのレノファ、0勝1分2敗順位19位。悔しいの一言。維新公園のスタジアムから自宅まで徒歩25分。歩きながら自分勝手なゲームの分析(個人情報保護の観点から割愛)。とにかく悔しいの連発。「ハードワークに勝る戦術はない」11人の選手全員が、もう1/10・2/10のハードワークのプラスができないのか。20年以上前に伸び盛りの高校生に言ってきたことと同じ内容が頭の中を駆け巡る。

 レノファ山口FCが勝てば気持ちがいい、ルンルン気分になれる。負ければ気分が重たくなる。まさしく、設立当時からの熱烈なサポーターの人たちと同じです。レノファ山口FCの熱烈なサポーターの皆さんには、いろいろな角度から支えていただきました。レノファ山口FCサポーターの皆さんは、全国的に見ても、その取り組み姿勢・態度等において、非常に高い評価を得ています。今後とも暖かいご支援をお願いいたします。

 2005年12月、山口市後河原惣野旅館(山口県サッカー教員団チームの合宿時の常宿)2階の一室。ここで、山口県サッカー教員団からレノファ山口FCへと成長していく第1歩を踏み出したのです。私の呼びかけで、当時の山口県サッカー教員団関係者、山口県サッカー協会関係者に集まってもらいました。

 当時の背景としては、
①「山口県にはプロチームが無い」
企業スポーツの撤退という状況下で、Jリーグ百年構想を基盤とした地域に密着したスポーツクラブの振興という視点から見ても、全国的と比較して、どちらかといえばサッカー後進県としての位置づけだったと思います。広島県にはサンフレッチェ、岡山県にはファジアーノ、鳥取県にはガイナーレ、島根県には競技は違いますが、バスケットのbjリーグと、中国5県の他の県ではプロチームもしくはそれに近いチームが存在し、プロチームが無いのは山口県だけで、全国的に見てもプロチームの無い県は数県しかないという状況でした。
②「5年後の山口国体に向けて、成年の部の強化策が無い」
当時の山口県は、2011年(平成23年)の第66回国民体育大会の開催が決定し、県を挙げて「天皇杯総合優勝」を目標に、それぞれの競技が、競技力向上事業に全力で取り組んでいる時期でした。サッカーも少年男子、成年男子、女子の各種別において、山口国体での上位入賞を目標に、具体的プランを持って取り組まなければならない時期でした。
③「なぜ教員チームを母体にしたのか」
教員チームを母体にしないと山口県サッカーリーグの最下部から新しくスタートしなくてはなりませんでした。山口県選手権優勝という飛び級の制度はありましたが、中国リーグに参入するまでに数年を有します。教員チームの関係者やOBの皆さんには、県内を回って、国体成年の部の優勝の延長上にJ2リーグ参入という構想を持って説明に回りました。先輩OBの方々には、概ね快く了解していただいたと考えています。

2011シーズン新入団選手発表会にて

 サッカー協会においても、レノファ山口FCの誕生と同時に、「Jを目指すチーム検討委員会」を設置していただき、チームとしては、後にNPO法人「山口アスレチック・クラブ」を設立し、チームの運営に当たると共に、「選手は全国から」という姿勢で、セレクション等の取り組みを進めてきました。

 いよいよ、地域リーグ(中国リーグ)をスタートに、2010年までに中国リーグ優勝、地域リーグ決勝大会優勝後に、JFL参入、2011年山口国体優勝と同時に「J2リーグ昇格」というビクトリーマップを描いて、レノファ山口FCは、第1歩を踏み出したのです。

NPO法人山口アスレチッククラブ設立祝賀会にて(2011年7月)

 私が代表を務めた6年間は、中国リーグ優勝や、石垣島と淡路島での地域リーグ決勝大会進出など、それなりの成果はあったものの山口国体では力が発揮できず、非常に苦しい創設期であったと思います。
 ビクトリーマップのプラン通りには行きませんでしたが、チームは長崎県開催の2013年全国社会人大会での優勝、2014年長崎国体での第5位など、着実に力をつけてきました。
丁度その時期起こってきたのが、「J3構想」です。レノファ山口FCにとっては、まさに「渡りに船」の構想でした。2013年にJリーグ準加盟承認等の基盤整備が進み、またJFL入会が決定し、2014年にはJFL4位という成績を収め、J3入会決定という経過をたどり、2015年「J3開幕」、山口県に初のプロサッカーチームが誕生しました。J3開幕初年度の快進撃、J3優勝を勝ち取りJ2昇格、創設時の「夢の実現」です。鳥取・とりぎんバードスタジアムでの歓喜は今も鮮明に覚えています。
 このようなチームの成長の陰には、サッカー教員団関係者、山口県サッカー協会関係者の支援・協力はもとより、初代監督の宮成隆氏の尽力があったことを忘れることは出来ません。今も私と一緒に大きな力で支えてくれているものと思っています。

 2021年3月21日、中国ダービー、ファジアーノ岡山戦、0-0のドロー。3月27日ジュビロ磐田戦、アウェイゲーム2-1今季初勝利。「磐田に負けたらどうしよう」という不安な気持ちを吹き飛ばす快勝。ここから波に乗っていこう。現在の私は、最初にも述べましたが、熱烈なレノファサポーターの一員です。

レノファ山口15周年記念マッチ キックインセレモニー(2021年3月)※右が佐竹さん

 最後に一言。フェアプレイの原点は「全力プレイ」です。90分間の全力プレイがピッチで発揮できるためのトレーニングです。全力プレイでないとサポーターや相手チームに失礼です。全力プレイはベンチの取り組みや態度にも通じるものがあります。選手やチーム関係者の全力プレイがひしひしと伝わってくるゲームを期待します。全力ブレイが感動を呼び、元気県山口に繋がります。


佐竹博さん(レノファ山口FC初代代表)Hiroshi Satake

1946年8月1日生まれ
山口県山口市出身
レノファ山口FCの創設に携わり、初代代表を務める。特定非営利活動法人山口アスレチック・クラブ(レノファ山口FCの前運営法人)では副理事長を務め、現在は株式会社レノファ山口の監査役およびアンバサダーを務める。

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