TOP HISTORY 15年の軌跡 リレーコラム

僕と家族とレノファと

中川和由さん(クラブ名称考案者)Kazuyoshi Nakagawa

まさか自分が?

 仕事で毎日通っていた9号線から古ぼけた維新百年年記念公園陸上競技場(当時)を眺める度に、『ここが改修されてガードレールまでオレンジ色の山口県なんだからきっとチームカラーもオレンジ色で、そんなオレンジ色のユニフォームを着た選手を応援しにオレンジ色のレプリカユニフォームを着たファンサポーターがJリーグを楽しめる日が来ればいいな』と勝手に想像を膨らませながら日々を過ごしていました。

 2005年、たまたま鹿児島を旅している最中に購入したサッカー雑誌のある記事に釘付けになったのは昨日の事に覚えています。『山口県サッカー教員団を母体にJリーグ•プロのクラブチームを目指す事にした』との記事に導かれ早速山口県サッカー協会のHPにアクセスしてみると、チーム名公募とあり、急いで書店へ英和•和英辞典を買いに行き既に頭にあった組み合わせの単語を確認し応募させていただきました。

 ついにここ山口県でJリーグを目指すチームが誕生してくれただけでも興奮していたのに、まさか自分が考えた名前が選ばれたとは。

 あれから15年、チームが順調な時はいいですが、チームが苦しんでいる時は「名前」のせいなんじゃないか?と思う事は正直今でもあります。
 ただそんな時でもスタジアムへ足を運べば、たくさんのファンサポーターが居て、必死に戦う選手の姿を見ていると、夢があり、感動を与えてくれ、元気を貰えるレノファには何かまた新しい維新を起こしてくれるんじゃないか?と言う気持ちが湧いてきます。
 どうぞ今後10年、50年、100年後も山口県民の皆さん、山口県が大好きな皆さん、レノファ山口と言うチームが大好きな皆さんの日常に『レノファ』があればいいなと思っております。

あの頃のサポーターとして想う事

 さて2021年シーズンもコロナ禍の中ではありますが無事に開幕し、レノファ山口FCは全国リーグ8シーズン目となりました。これで地域リーグでの8シーズンと丁度並ぶ訳ですが、少しその8シーズンの思い出話をさせていただきます。

 Jリーグを目指す!と言ってもいきなりJクラブが出来る訳では無いので、スタジアム、いや競技場と呼んだ方が良い場所には今のような大勢のお客さんがいる訳ではなく、居てもよほどのサッカー好きか、選手の家族か選手の彼女ぐらい。
 その中で数人のサポーターが声を出して太鼓叩いて応援する姿に『何この人達?』と言うような視線を感じずには居られないほどの所からのスタートでした。

 シーズンの開幕もJリーグより遅く、地域決勝(現地域CL)に進めなければJリーグより早くシーズンが終わる。夏の暑い時期でも13時キックオフは当たり前、アウェイゲームでは応援スペースもスタンドがあったらラッキーぐらいで目の前を副審の方が行ったり来たりするいわゆるピッチレべルの会場の方が多い環境でしたが、あの8シーズンを一緒に過ごしたサポーターは熱い方が多かった!いや熱苦し過ぎました!(褒め言葉ですよ)
 そんな熱苦し過ぎる仲間達と中国5県を回りながら、地決や全社に出場が決まれば全国各地の開催地へ出掛けて行く。そんな8シーズンでした。

 地域リーグ時代の思い出話はありすぎて書ききれませんがあげるとすればやはり2008年、サポーター人生で最大の後悔をした事ですかね。

 中国サッカーリーグを初優勝し、初の全国地域リーグ決勝大会へ。
1次ラウンドグループC(会場は7年後にJ3優勝を決めたあのスタジアム)
・レノファ山口FC
・静岡FC
・グルージャ盛岡
・松本山雅FC

 土曜、日曜、月曜(祝)と戦い、一次ラウンドを突破すればその週の金曜日には石垣島で行われる決勝ラウンド1戦目と言うとんでもない日程に僕もまだついて行けて無いのが当時の状況でした。
鳥取での1次ラウンドは初日、2日目を観戦し所用の為帰宅。3日目に松本山雅FC戦にPKの末勝利しチームの決勝ラウンドラウンド行きが確定。その週の夜間、高川学園のグランドで行われた練習終わりにサポーター有志で当時に行える精一杯の壮行会を開き選手達を送り出しましたが、4チーム中3チームがJFL昇格出来る最大のチャンスは3戦全敗。

 決勝ラウンド
・FC町田ゼルビア
・ホンダロックSC
・V・ファーレン長崎
・レノファ山口FC
※詳しくはレノファ山口公式サイトの試合日程の2008年の欄

 石垣島へ応援へ行け無かった思いを少しでも埋めるべく選手達が石垣島から帰って来る福岡空港まで当時の仲間3人で選手の激励に出向きました。
 到着ロビーにはJFL昇格を決めたV・ファーレン長崎のサポーターや選手、クラブ関係者の笑顔に溢れ、その横を笑顔無く山口へ帰るバスへ足早に向かう選手達へ『再挑戦』と書いたボードを掲げるのが精一杯だった無念さ。
 「自分が行った所で結果が変わった訳ではないけどせめて選手と同じ場所で悔しさを味わいたかった」
 やはり人生、やって後悔するより、やらなかった事の方が絶対後悔すると言う事をレノファから教えられた瞬間でした。

 余談ですが、何と最終日の3日目に日帰りで石垣島へ行ったサポーターが1人いらっしゃいましてその方が到着ロビーに現れた時はビビりました。後、某メディアさんにも…
 今だったら石垣島何人ぐらい行きますかね?

 そしてレノファ山口初代監督であり、山口県にJリーグクラブを誕生させようと立ち上がった故・宮成隆さんの熱い想いに触れる事が出来た事は僕にとっての財産となっています。たまたまレノファを通じて出会った僕のようなただのサッカー好きにも真摯に向き合ってくれる笑顔が素敵な熱い方でした。

 宮さん(ここからはこう書かせて下さい)との思い出話もありすぎます。

 下関で4種のレノファサッカー教室の開催が予定されていた年に新型インフルエンザが流行し中止になった翌年、「今年は選手全員連れて行くから子供達沢山集めといて」と言ってくれ本当に都合の付く選手を全員連れて来てくれました。ただこのサッカー教室に参加してくれたのは地元少年団ともう1チームの少年団の子供達だけでした。案内は色々出しましたがその当時の下関でのレノファ人気と言うか何と言うか宮さんには本当に申し訳なくなかったです。

(写真2011年11月23日)

 それから宮さんには僕のその後の人生を更に変える出会いもくれました。
 宮さんの葬儀に参列させていただいた際、僕の隣はずっと空席でした。その空席を最後の最後に埋めたのが福原康太選手でした。
 これは絶対宮さんが仕向けたんだと確信しています!(あのサプライズはその後の僕の人生に大きく影響しています!って知ってるか宮さんは)

 まだまだ沢山の思い出がありますが最後に宮さんと当時のサポーターの想いが今も生き続けているお話しを。

 「サポーターの皆さんで今年のチームスローガン『粘り勝つ!』をテーマにした応援歌(チャント)を作ってくれ無いか?」 そんなお話しをいただきました。そんな中で生まれたチャントが

粘れ山口

気持ちはひとつ

共にたたかおう

勝利の為に

 と言うそのチームスローガンを歌詞に入れ込んだチャントをサポーター仲間と作成し宮さんに披露した時には大変喜んでいただきましたね。
 現在は『粘れ』の箇所が『進め』に変更されていますが、宮さんの熱い想いが詰まったこのチャントがJリーグの舞台でこの先もずっとずっと歌い継がれて欲しいと思います。

現在の私

 さて僕は今、新たに名付け親となって生まれ故郷の下関市で活動しています。青鯨団(ブルーホエールズ)と名付けたFCバレイン下関公認応援団の代表として活動しながらまたあの頃のような日々を過ごしております。
 きっかけは2014年にミスターレノファと呼ばれた人気選手福原康太選手(知らない方の為にあえて今で例えるなら岸田選手ぐらいのレノファと言えばな選手)の山口県リーグ1部所属(当時)のFCバレイン下関への期限付き移籍。

「え?康太が下関?え?え?」

 そんな僕の生まれ育った大好きな街下関に福原康太がやって来ると言う高揚感とそれまではほんの少ししか気にかけていなかった2006年に同じくJリーグ入りを目指して創設された同期クラブであるFCバレイン下関の存在が少しだけ大きくなった瞬間でした。その後、レノファのJFL4位以内確定の瞬間を見届け(写真のでの上が私)、J3優勝の瞬間も見届け、J2リーグで躍動するレノファを横目に僕は青色のユニフォームを着てプレーする福原康太選手の試合を見に県リーグの会場にも足を運ぶようになりました。

 そこにはあの頃と変わらない光景がありました。いやJリーグ入りを目指して活動しているクラブの試合なのにあの頃よりも静かな光景が広がっていました。
そう、もうここ山口県では当たり前になったサポーターの姿やチャントが聞こえなかったのです。
 これは誰かがやらなきゃ。山口県にもJリーグクラブがもうひとつぐらいあってもいいんじゃないか?やらなかった後悔はもうしたくない。そう思い当時レノファで知り合っていた下関の仲間と青鯨団を立ち上げました。
 現在は宮さんが蒔いた種の次なる大きな花を咲かせるべくFCバレイン下関代表となった福原康太氏や仕事をしながら県内外から志を持って下関にやってきた選手達(元レノファの選手も在籍中)とレノファのあの頃と同じように中国サッカーリーグからまずはJFL昇格を目指して活動しています。

 ただ、あの頃と決定的に違う事があります。
 それはすでに山口県内にJリーグクラブがあると言う事。
 山口県内のサッカー好きの皆さん、レノファの試合が無い日にお時間がありましたらあの頃の追体験がてらにFCバレイン下関の試合会場へ足を運んでいただければと思います。
 もちろん僕もバレインの試合が無い日はレノファの試合を見に行きます。

見せて感じさせる大事さ

 「あの子が大きくなった頃にはJリーグへ上がれてたらいいね」
 レノファの名付け親として2006年のホーム開幕戦の日の表彰式に当時4歳の長男と出席した際、スタンドに居た僕の家族がこんな会話を聞いたそうです。
 その会話をされていた方、あの子が大きくなる頃にはJリーグへ上がりましたよ!

最後にそんな僕の長男の話をさせて下さい。

 2006年から長男にとってもレノファの試合会場へサッカーを見に行くのが週末の当たり前となり、小学校へ入学と同時に地元のスポーツ少年団へ入団しサッカーを始めるきっかけにもなりました。
小さい頃から山口県内で1番レベルの高い社会人リーグを体で感じながら、毎年のように好きな選手がコロコロ変わりましたが、プレーを真似したり、一丁前に今の所はそのパスじゃないやろなんて言いながらレノファのサッカーを身近に感じながら高校生までサッカーを続け、高校3年生の時には全国高校サッカー選手達大会のピッチ(レノファがJリーグクラブと始めて公式戦で対戦した等々力陸上競技場)に立たせてもらえたのは本人の努力もそれまで指導していただいた指導者のおかげももちろんあるとは思いますが、小さい頃からずっと身近な存在だったレノファがあった事も大きく影響していると思います。
 これはあくまでも個人的な思いですが、育成年代の子供たちに土日の練習や試合を通じてプレー経験を沢山積ませる事も大事ですが、レベルの高いプレーを生で沢山見せて体で感じさせる事も大事なんじゃ無いかと思います。
 ぜひともより多くの子供達にもっともっとレノファの選手達のプレーを試合会場で見て感じさせて欲しいなと長男の成長を通して親として感じた事を最後に書かせていただきました。
 駄文ではございましたが、レノファ山口FCの創設15周年、本当におめでとうございます。これからも「夢・感動・元気」を共有しながら更なるステージへの飛躍を願って私のレノファ山口創設15周年リレーコラムとさせていただきます。

 

進め山口 気持ちはひとつ 共にたたかおう 勝利の為に


中川和由さん(クラブ名称考案者)Kazuyoshi Nakagawa

1975.2.27
山口県下関市出身
サッカーとラジオが大好きな会社員
現在は、仕事の傍ら下関市にあるコミュニティFM COME ON! FMにてパーソナリティーとしても活動中。
2020年度担当番組は、ミュージックパレット(第2金曜日)、kz selection(毎週土曜日)、海峡football café(不定期)

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