レノファ山口FC

ミヤさんから受け継いだバトン
「山口でやり続ける大切さ」を胸に
中山 元気コーチ

トップチームの中山元気コーチは2011年から2年間、地域リーグ時代のレノファ山口FCでプレーし、引退後の2013年は監督としてチームを率いました。レノファのアカデミーでの指導を経て、現在はトップチームのコーチとして選手たちの技術向上に力を割いています。
中山コーチは下関市出身。J1のサンフレッチェ広島やコンサドーレ札幌、湘南ベルマーレに所属し、ハードワークとヘディングを武器にFWとしてプレーしてきました。2011年には生前の宮成隆GM(当時)からの招きで地域リーグにいたレノファへの加入を決断。宮成さんからバトンを託された一人として、今でも「山口でやり続ける大切さ」を胸に、地元のJリーグクラブに情熱を注いでいます。

プロフィール
1981年9月15日生まれ、下関市出身。現役時代は広島、札幌、湘南でプレーし、2011年と12年にレノファに選手として所属。トップチームの監督を経て、14年から18年まではレノファU-18の監督としてユースチームを指導。19年からトップチームのコーチとして選手を指導している。

ミヤさんから受け継いだバトン
「山口でやり続ける大切さ」
を胸に
中山 元気コーチ

トップチームの中山元気コーチは2011年から2年間、地域リーグ時代のレノファ山口FCでプレーし、引退後の2013年は監督としてチームを率いました。レノファのアカデミーでの指導を経て、現在はトップチームのコーチとして選手たちの技術向上に力を割いています。
中山コーチは下関市出身。J1のサンフレッチェ広島やコンサドーレ札幌、湘南ベルマーレに所属し、ハードワークとヘディングを武器にFWとしてプレーしてきました。2011年には生前の宮成隆GM(当時)からの招きで地域リーグにいたレノファへの加入を決断。宮成さんからバトンを託された一人として、今でも「山口でやり続ける大切さ」を胸に、地元のJリーグクラブに情熱を注いでいます。

プロフィール
1981年9月15日生まれ、下関市出身。現役時代は広島、札幌、湘南でプレーし、2011年と12年にレノファに選手として所属。トップチームの監督を経て、14年から18年まではレノファU-18の監督としてユースチームを指導。19年からトップチームのコーチとして選手を指導している。

J1クラブからの移籍
響いたミヤさんの思いと決断

-2010年までJリーグでプレーしたあと、選手として山口県のチームに戻ってくるという決断をしました。当時、そのような決断をした思いを聞かせてください。

 チームでは攻守に関わるために走るということはしっかりやろうと心がけていました。ただ、湘南で三回目の前十字靱帯のケガをやってしまい、復帰することなくシーズンを終えてしまいました。
 シーズン後はまだどこかでプレーしたいという気持ちと、引退して指導者になっていくという気持ちの間で中途半端に悩んでいました。どこかのチームのキャンプに参加して、そこでダメだと言われたら諦めがつくのではないか。そういう模索もしていましたが、キャンプに行ける可能性も限られていました。そういう中で、ミヤさんから「プレーができるかどうかを見せて欲しい」という連絡をいただきました。どっちつかずだった自分にそういう連絡をくれて、徳地にプレーしに行ったのを今でもはっきりと覚えています。
 働きながらでもサッカーができるという目途が立ち、Jリーグを目指している地元のチームでプレーする機会をいただけました。山口国体(2011年)という目標があったのも大きかったです。それらが決断できる要素でした。地域リーグではありましたが、JFL、Jリーグとステップを踏めるというチャンスが地元であるわけですから、そこでプレーできるならば、家族もいる中で、みんなで山口に行けるのではないかと思いました。

-当時はまだ環境面も十分ではなかったと思いますが、経験ある選手としてレノファに移籍して、どのようなものが見えてきましたか?

 山口国体が終わったあとが一番の転機でした。2011年は地域リーグも成績が出せなかったですし、当時のレノファにJリーグを目指せるだけのものがあったかと言えば、それはなかったかもしれません。国体で終わるのではないかという思いさえもありましたし、自分自身もシーズンの終わり頃には、このあとどうしようかと考えていました。
 そういうときに、ミヤさんが言ってくれたのは、「もう一年やるから残ってほしい」という言葉でした。2011年でチームを閉じず、「もう一年やる。頑張る」と。そして、ミヤさんが山口でやり続ける大切さを話してくれたのを覚えています。そう言ってもらったからこそ、山口でもう一年プレーし、今も山口で指導者をやらせてもらえていると思っています。レノファ自体、「もう一年やる」とミヤさんが言った2012年がなければ、今はなかったと思います。

-2012年で引退し、すぐにチームの監督となります。そのときはどのような思いを抱いていましたか?

 実際に私がレノファに来た時には、すでにミヤさんは運営側でしたので、陣頭で指導しているということはありませんでしたが、それでも個人個人にアドバイスしている姿がありました。いろいろな選手に目を配ることの大切さはミヤさんから学んだ部分です。
 2013年には引退して、指導者の道を進むようになりました。今でも自分と同い年の選手が現役でプレーしていると羨ましく思いますが、引退はいつかは来てしまうものです。2012年のシーズン後、レノファをつぶしてはいけないという思いから河村さん(河村孝社長。2012年は監督)が運営に回り、私に「監督業を託す」という話をされた。この時に引退を決めました。
 決断できたのは山口だったからこそだと思います。他のチームにいたらまだ悩んでいたかもしれません。ミヤさんから受けた「山口でやる意義」の言葉がありましたので、腹をくくって決断できたと思います。山口に残って指導者としてまた何かができるわけですから決断ができました。

山口にできたJリーグクラブ
憧れの存在へ、新たな責務

-レノファはクラブ発足から15周年を迎えました。中山コーチが山口に戻ってきた2011年からは10年が経ちます。この10年でのクラブの成長や街の盛り上がりをどのように感じていますか?

 山口に戻ってきた頃は、Jリーグを目指せるかどうか分からないような状況でしたが、河村さんが運営側に立って環境が整っていきました。J3リーグが創設されて、そこを目指せたのも大きかったです。そこからはあっという間の出来事で、本当に怒濤(どとう)のようにJFL、J3、J2に上がっていきました。
 地元にJリーグチームができたらいいなとは以前から思っていましたが、それが実際にできて、こうやって今もJ2で戦えています。本当に夢が現実になり、そこに携わることもできている嬉しさがあります。もっともっとチームが飛躍するために、私もレノファの一員として力を付けていきたいと思いますが、10年でこのような形になったのは素晴らしいことだと思います。

-幼少期には存在していなかった「プロチーム」が山口県にある意義はどういったものでしょうか?
 2013年に監督をやらせてもらいながらいろいろな地域に行って話をしたり、スクールを開いたりしていましたが、当時の認知度は山口市くらいに限られていて、子どもたちに聞いても、レノファを知っている人は限られていました。それが今ではどこの地域に行っても認知されていて、レノファを目指す子どもたちもいるようになりました。

 私が子どもの頃には地元チームの試合に見に行くことはできませんでした。札幌では連休中には大勢の子どもたちが練習を見に来て、プロになるためにはここまでできなければいけないんだというのを身近で感じてくれていました。札幌の子どもたちは目標とするものを近くで見て、試合にも通えるのです。それが羨ましいことでした。その環境がいま、山口にもできました。その分、自分たちにも責任は芽生えますし、子どもたちがもっとレノファを目指せるようにしていかないといけません。
 この山口県にこのプロチームを作るために、確かに最初は難しさがありました。ないものを作るわけですから、いろいろな方々が努力してきましたし、初めは理解を得るのが難しかったと思います。運営の人たちは理解を得ようといろいろな方々に話をしてきましたし、フロントの人たちも働いてきました。たくさんの方の支えや行動があって、こうやってプロの組織が身近にできました。それは地元の子どもたちにとっても、その競技をされている方にとっても意義深いことだと思います。

レノファには大きなポテンシャル
J1昇格へ、思いを一つに

-広島や札幌などJ1クラブでプレーしてきた中山コーチから見て、今のレノファがもっと身につけなければならないことは何でしょうか。

 J1に行くには組織力とか、お金が必要かもしれません。ただ、それぞれの人たちが、自分たちの立場で何をすればいいかを考えて、その力が合わさった時には、レノファにもJ1に上がるチャンスがあると思います。山口全体の力が一つになり、それが重なった時のパワーが大きなものになるはずです。組織がまだ小さいとか、ホームタウンが地方だとか、そういうことがあってもJ1に上がるためにみんなが行動できれば、パワーの大きさは変わってきます。私はJ1に上がれるチャンスはあると思います。
 それに、J1に上がったら、レノファがどうなっていくのかを見てみたい。これまでも組織がどんどんと変わってきましたが、J1に行ったときにレノファがどうなり、街はどのように変化するのか。私自身は今、レノファの中にいますが、他人事のように見てみたいと思っています。

-レノファの未来に向けて、中山コーチ自身はどういう関わり方をしていきたいですか?

 私ももっと自分が力を付けなければならないと感じています。トップチームの監督を目指せるか、目指せないかという自問自答に私自身が答えられるようにレベルアップしなければならないと思います。
 いろいろなカテゴリーを指導する中で、自分が発する言葉に対して、選手たちがどのように感じ取っているか。相手が大人であっても、高校生や中学生であっても、彼らに伝える難しさはあります。トレーニングの引き出し、戦術の引き出しもそうですが、経験を積み、いろいろな立場から、いろいろなことを学ばなければならないと思います。

-まもなく今年も宮成隆さんの命日でもある6月9日を迎えます。コロナ禍ではありますが、Jリーグの風景をどのようにミヤさんに見せたいですか?

 ミヤさんは本当にサッカーが好きな人でした。最期の頃も本当にサッカーのために、レノファのために何かできないかという行動の取り方をしていました。指導は譲っていましたが、いろいろな面で人生を懸けてレノファを運営していました。純粋にサッカーが好きで、物腰はとにかく優しかったです。
 6月9日に毎年、当時を振り返ることができます。そのときに、やはりミヤさんが生きていたら、Jリーグの舞台をどう思っているのかは考えます。やはりミヤさんが夢見ていたことですから、実際にレノファがこうなっているということを見せてあげたかった。見てもらいたかったです。ただ、今でもレノファがどんどんと成長することを願っていると思いますし、私も成長し続けられるようにしていきたいと思います。

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