TOP HISTORY 15年の軌跡 リレーコラム

山本アンバサダーコラム

レノファの母体となった県サッカー教員団でDFとして国体に3度出場。1990年から16年間は監督を努め、チームを天皇杯に4度導いた。2006年のレノファ山口設立のメンバーの一人で、現在もクラブの「アンバサダー」としてホームゲームの運営やPR活動に携わる。2021年4月、取締役に就任。教師としては萩商工高、下関商業高、西京高の校長などを歴任し、山口高時代はレノファの河村孝社長の担任を努めた。選手たちとも親交が深く、オフは一緒に出かけることも。

第8話 2013年

桃栗3年レノファ8年
全社優勝、いよいよJFLの舞台へ!

 果樹を植えてその実がなるまでには相応の年月を待たなければならないと言われます。何事も成就するまでには歳月がかかります。桃栗3年柿8年レノファもチーム創設から8年目、2012年限りで現役を引退した中山元気選手が新監督に就任河村孝前監督が新GMとして手腕を発揮することとなり新体制で”Jのつく場所”へ心一つに挑戦することとなります。

 チームスローガンは「異体同心」、チームエンブレムも一新されました。チームの意識改革と会社組織構築が着実に進められる中、現状維持はもちろん後退も許されないシーズンがスタートします。
 2009年から4年間レノファ山口のために戦い続けてくれた伊藤博幹選手が退団、ゲームでアクセントを加えてくれていた児玉光史・中村優太・佐久間大樹選手たちもチームを離れました。そして新たに平林輝良寛選手(ツエーゲン金沢)飯塚亮選手(カマタマーレ讃岐)馬場悠選手(ファジアーノ岡山ネクスト)孫正倫選手(アビスパ福岡)たち14名が加入、6月には岡本秀雄選手(カマタマーレ讃岐)が加わり勝負の年を駆け抜けることとなります。

このシーズンからサポーターと踊る勝利後のラインダンスが定番に。

 4月6日/7日集中開催となった開幕戦でJXエネルギー水島に2―2の引き分け、やや不安なスタートとなりました。その後は勝ち星を重ねることができましたが難敵である佐川急便中国には2戦ともスコアレスドロー、優勝を争うファジアーノ岡山ネクスト・デッツォーラ島根戦はともに1勝1敗と勝ち越すことができませんでした。

 引き分け3試合が最後まで響き、最終成績は13勝3分2敗・勝ち点45で3位という厳しい結果となりました。15勝2分1敗で勝ち点47を獲得したファジアーノ岡山ネクストが優勝を飾りましたが、この勝ち点5という差は大きな差なのでしょう。(なおファジアーノ岡山ネクストは全国地域リーグ決勝大会での準優勝により次年度からJFL自動昇格)

9月14日、初のナイターゲームでは過去最高の3,750人の観客を記録(vs.デッツォーラ島根)

 山口県選手権大会では決勝で徳山大学に勝利して2年ぶりに天皇杯に出場しました。9月1日の1回戦、勝利を目指して秋田に乗り込みましたがブラウブリッツ秋田に0―2で負け、2回戦進出とはなりませんでした。秋田の守備陣には初田真也選手(現在:レノファ山口事業部)島川俊郎選手(2016年レノファ山口、現在:J1サガン鳥栖)がいてレノファの攻撃を抑えていましたからね。懐かしさや縁を感じています。

 中国リーグでは3位という成績であったため全国地域リーグ決勝大会へ出場するためには全国社会人大会で優勝するしかないという状況下、日々のトレーニングが積み重ねられていきます。(7月に開催された中国社会人大会では広島県の会場に多くのサポーターが現地集結、選手たちは心強い声援を力にして中国社会人大会を突破)

 2013年10月19日から島原市/雲仙市を中心に開催された全国社会人サッカー選手権大会、優勝するには5日間勝ち続けるしかないという過酷な戦いです。1回戦はtonan前橋に3―2、2回戦は新日鐵住金大分に3―1、3回戦は浦安SCに1―0、準決勝ではFC岐阜SECONDに2―0で勝利して、いよいよ決勝戦。
 10月23日島原市営陸上競技場においてレノファ山口に新たな歴史が刻まれることとなりました。グルージャ盛岡との一戦は激闘となり1―1で延長戦に突入、延長でも決着がつかずPK戦に。レノファは飯塚亮・高田健吾・碇野壱馬・馬場悠、平林輝良寛選手5人全員が決めて5―4で勝利、悲願の優勝をつかみ取りました。平日にもかかわらず現地には多くのサポーターが集結、みんなが抱き合い笑顔の花が咲き誇りました。

【※レノファは次年度からJFL参入となったため、中山元気監督はレノファ史上唯一の全社優勝監督となります。】

 全国社会人大会優勝という快挙を成し遂げましたが、個人的には1回戦tonan前橋戦での後半70分にキム・ドフン選手が決めたゴールがチームに勇気や元気、決してあきらめない勝負魂をもたらしてくれたと思っています。前後半で2失点を喫してしまい会場には前橋勝利という雰囲気が流れていました。しかしキム・ドフン選手のゴールから流れは一転、4分後には高田健吾選手が同点ゴール、そして終了間際にオウンゴールを奪い見事な逆転勝利!この勢いで一気に優勝まで駆け上がった感があります。

全国社会人サッカー選手権大会優勝を果たし、歓喜に湧くレノファイレブンとサポーターの皆さん

 2回戦観戦後の帰路、羨ましい情景を目にしました。その日はJ2リーグV・ファーレン長崎対FC岐阜戦が長崎県立総合運動公園陸上競技場(現トランスコスモススタジアム長崎)で開催、多くのサポーターが長崎ユニを着て楽しそうに会場に足を運んでいました。地元ラジオで生放送中継もされており、『いつの日かレノファもこんな風景のなかJリーグで戦えたらいいな』と願いつつ運転していたのがつい昨日のようです。

 11月8日から3日間、全社優勝により出場権を獲得した全国地域リーグ決勝大会(1次ラウンド)に臨みました。初日のヴォルカ鹿児島戦は福原康太選手のゴールで先制したものの逆転負け、2日目はFC大阪に完封負け、最終日にはマルヤス工業(愛知)に2―2からPK勝ちしましたが残念ながらグループ3位となり予選ラウンドで敗退することとなりました。全国地域リーグ決勝大会において結果を残すことはできませんでしたが、全社で優勝することにより得たものも多くあります。これからも目標に向かって全力を尽くすのみです。

 2013年はJ3新設が発表されてレノファ山口も参入に向けて諸々の準備や体制づくりが進められました。8月にはJリーグ準加盟クラブとして承認されていましたが、残念ながら「J3入会審査に及ばず」ということとなりました。しかしながら8年間の積み重ねに対して吉報が届きます。12月にJFL入会希望申請チーム枠の1つとして「2014年からのJFL入会」が承認されました。レノファ山口に関わる全ての人たちにとって「喜びに涙する日」となりました。

 2012年4月末のミヤ(宮成隆:前GM)からの電話「がんという診断結果を知らされました。山本さん、神様はいたずらじゃね。なぜ自分が・・」。入院先ではいつもパソコンとノートを開きレノファに関わるデータの打ちこみや分析をし「必ず元気になって戻るから。」と言い続けたミヤ、2013年6月9日逝去。涙が止まりません・・・。2005年秋からレノファ山口立ち上げに尽力し人生をレノファのJ昇格に懸けて全力で駆け抜けていきました。全社優勝やJFL昇格に大きな力を与えてくれた初代監督宮成隆を忘れることはありません。レノファ山口の歩みは宮成隆の歩みでもあり、これからもずっと一緒に歩んで行きます。

 いよいよ2014年シーズンは”JFL”の舞台へ、ひるむことなく勇気をもってチャレンジできるステージに歩を進めます。チーム創設から8年、オレンジの実がふくらみ始めました。志高くレノファ山口の挑戦は続いていきます。


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