TOP HISTORY 15年の軌跡 リレーコラム

山本アンバサダーコラム

レノファの母体となった県サッカー教員団でDFとして国体に3度出場。1990年から16年間は監督を努め、チームを天皇杯に4度導いた。2006年のレノファ山口設立のメンバーの一人で、現在もクラブの「アンバサダー」としてホームゲームの運営やPR活動に携わる。2021年4月、取締役に就任。教師としては萩商工高、下関商業高、西京高の校長などを歴任し、山口高時代はレノファの河村孝社長の担任を努めた。選手たちとも親交が深く、オフは一緒に出かけることも。

第1話 2006年

この山口にサッカーチームを
子どもたちに夢を。

時は2005年10月末、山口教員団は中国リーグ7チーム中最下位に沈み入替戦に向け思案している夕方、県サッカー協会技術委員長であるミヤ(故宮成隆レノファ初代監督、山口高校サッカー部の2学年後輩)から相談したいことがあります、と連絡が入りました。(ちなみに2005年中国リーグには山口教員団が2回目の昇格参入、チーム結成2年目のファジアーノ岡山が初昇格参入)。

そして翌日、「山口県にJリーグを目指すチームを立ち上げたい。新たなチームを結成し県リーグに加盟するという0からのスタートではなく教員団を母体としたい。何とか入替戦で頑張り中国リーグに残留してもらいたい。」と、いつものミヤどおり自分の思いをほぼ一方的に話しノーという選択肢がない会話となりました。

中国リーグをともに戦っていた鳥取教員団(後にSC鳥取→ガイナーレ鳥取)がJFL・J2と歩を進めた勢いのある時期を思い出したり、前年創設されたファジアーノ岡山の目標や方向性を聞く機会が増えたりしていた時期でもあり、”Jリーグ”という言葉が浮かんだり消えたりという状況で入替戦2試合を戦いました。
2戦ともに辛くも引き分け(特にアウェーとなった2戦目は1点リードを許したままラストワンプレーで劇的同点弾が生まれる)残留を決めることができ大きな安堵感に包まれました。倉敷からの帰路、チームは車移動でしたが急遽私一人だけ新幹線に、ビール片手にいろいろな思いが駆け巡ったことを覚えています。

その後は県サッカー協会の役員でもあり「Jを目指すチーム創り検討委員会」山根幹夫委員長、設楽健治副委員長、佐竹博委員たちが尽力され協会会議や検討委員会会議を重ねチーム創りの検討が進んでいきました。そして2006年2月20日に県庁内県政記者クラブにおいて、「山口県サッカー教員団を母体としたJリーグを目指す新チームをスタートさせる。総括責任者兼監督には宮成隆が就任する。2015年からのJ1昇格、2011年の山口国体での優勝を目指す。今後、チーム名を公募する。」という記者発表が行われました。
志高く語るミヤの横で「もう前へ進んでいくしかないな」と強く決心した事を思い出します。

記者会見  

創設初年度は2チーム体制で活動することとなり、選手全員との面談が行われ中国リーグと県リーグ4部に登録。山口教員団のメンバーに大卒新人の宮﨑智史・吉田健次郎・柏原涉選手たち数名が新しく加わり、石上大輔主将のもと新たな歴史を歩み始めることとなります。
と言ってもメンバーは前年とほぼ変わらず、週3日選手もスタッフも全員が仕事を終え夜集合してのトレーニングを重ね週末のリーグ戦に臨むこととなります。

2006メンバー

ホーム戦では試合会場作りから運営等全てのことを選手・スタッフ、そして心強いボランティアグループで行っていました。
中国リーグ2005年シーズンはファジアーノ岡山を含め佐川急便中国やセントラル中国(後のデッツォーラ島根)、フジタなど強豪がひしめいていました。

いよいよ4月30日リーグ開幕、レノファ山口の歴史を刻む初戦となったファジアーノ岡山との一戦(桃太郎スタジアム:現在のシティライトスタジアム)は力の差を見せつけられ1-5と大敗を喫し、5月のホーム戦でも0-3と歯が立たず。レノファ初年度の成績は8勝6敗で4位、優勝はファジアーノ岡山でした。
しかし前年度1勝しかできず最下位だったチームが8勝できたことでチームの変革を感じることができました。
(なお、県リーグについては2年間で活動を終えるとともに登録辞退。2006年度4部Aゾーン優勝、2007年度3部Aゾーン2位)

レノファ山口初のホームゲーム(2006.5.7 vs佐川急便中国/維新公園ラグビーサッカー場)

レノファ山口初のホームゲーム(2006.5.7 vs佐川急便中国/維新公園ラグビーサッカー場)

数多くの課題に直面しながらも一歩前へ踏み出した事による収穫もあり、PDCAサイクルを回して2007年度の戦いに向けオフ期間の取り組みをすることとなります。
ミヤがよく言っていた「始めなければ、絶対に何も起きない!」、レノファ山口の挑戦がスタートしました。昭和から平成、平成から令和と時代が流れる中、山口教員団からレノファ山口へと、Jリーグ参入に人生を懸けた故宮成隆初代監督からぶれることなく信念を貫いている河村孝社長へとたすきは繋がれ、レノファ山口の熱き志は脈々と受け継がれていくこととなります。

山口教員団からレノファ山口創設、そしてレノファ山口創成期から今日までに県サッカー協会はじめ行政・地域・企業、そしてサポーターやボランティア等多くの皆様のご支援をいただいています。そうした中、本コラムはチームと選手たち、各年度の戦いを中心に振り返っていきますこと、どうぞご理解のほどお願いします。


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